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面会と医師面談 [父の介護]

コロナ対策で病室での面会はできないので、別室を設けてもらって会う。
父はベッドのまま移送されてきた。
通常の父と比較すると衰弱はしているものの、
救急搬送された頃のような朦朧とした光の無い眼ではなく、
しっかりした眼光に戻っていた。

脳梗塞の後遺症としての てんかん発作の可能性を指摘されてから
父は抗てんかん薬を処方された。
半錠だった頃の一週間は影響がなかったように見受けられたが、
通常量として1錠を服用するようになってから極端に朦朧とするようになった。
施設でも、それが原因で急に生活の質が落ちたのでは、と懸念してくれて、
私達が法事で動けない間に「抗てんかん薬を止めても良いか」と脳外科と
折衝してくれて現在は抗てんかん薬を服用していない、という経緯があった。
今しっかりした眼光に戻った父を見て、
やっぱり薬が合わなかったのではないか、と意を強くした。
けれどその間、朦朧と寝たきり状態にあったため、
あっと言う間に筋肉が落ち、体力が落ちて、
入院時に比べても更に痩せているのがわかった。
なんやかやと不満と冗談が多い私達家族の常で、
面会時の会話は、憎まれ口とツッコミの応酬と言う通常運転で明るくはあった。


父が病室に戻されたあと、医師面談がはじまった。
今回の入院は誤嚥肺炎であると、レントゲンを見ながら説明してくれる。
肺が白く映っている部分があり、要はここが機能せず、
呼吸をするスペースが少ない状態なのだ。
嚥下機能もかなり落ちており、現在は嚥下のリハビリで回復状況を見ている。
肺炎を起こすたびに体力が落ち、肺の白い部分が増えていけば
酸素が取り込めないので血中酸素濃度も落ちていく。
高齢のため、このようなことを繰り返すと、治療中でもいつ死に至ってもおかしくないと。
最期を迎えるにあたって、家族の意思を確認しておきたいとのことだった。

私達は、母を見送った際に、家族が死に直面した時も延命治療は行わない、と決めていた。
父も、呼吸が苦しそうな母の姿を見るのが辛かったという。
だから、本人・姉・私ともその意志は統一されていることを伝えた。
もし父がその場面に直面した時、同じ意志でいられるかはわからないが、
現時点ではそうであることを伝えて、面談は終わった。

明るく父と冗談を言い合ってちょっぴり安心したのも束の間、
意外に「その時」は近いのかもしれない。


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本人同席での医師説明 [父の介護]

父の病室でコロナ陽性者が出たという。
最初は一人だけだったが、日を追うにつれ、二人目、三人目と陽性に転じていき、
今や父だけが陰性のため、逆隔離で一人部屋に移ったらしい。

先週の医師面談で「一週間、嚥下リハビリの効果や肺炎の回復状況を見て、
今後の対応をご家族と相談しましょう」という話になっていたが、
今日はその面談の日だ。
姉には電話のスピーカー機能を使って一緒に説明を聞いてもらい、
本人同席のもと、現状を理解した上で意思確認をするのだ。


面談の前に父に面会した。
今回はベッドでなく、車いすで現れた。血色も良く、明らかに入院時より元気だ。
リハビリのおかげで、なんと、つたい歩きもできるようになり、
トイレくらいなら付き添いがあれば歩いて行ける時もあるのだという。
「その時」を覚悟したけれど、まだまだ大丈夫かもしれない、と希望を持った。
口は入歯が入っていないこともあり、言葉が明瞭ではないが、
頭はしっかりしており、あいかわらず
「あれを持ってこい、これを持ってこい」と要求は激しい。
父は、退院したら高齢者住宅に戻って、ああしたい、こうしたい、と言う。
現状ではもう戻れないんだよ、と話す。
以前の状態に戻らない限り、自立が前提の高齢者住宅では受け入れができないため、
今はお向かいのクリニックに併設した老健に移動することを考えているんだ、と。

「ここが終の棲家だと言っていたじゃないか。俺は何としても帰りたい」
わかるよ。私達だってそのつもりだった。父が静かに機能が衰えていくなら
そのまま高齢者住宅で看取りができるはずだったのだ。
救急搬送する事態になってケアの範囲が大幅に変更になった今となっては無理なんだ。


父が納得しないまま、医師が現れて面談が始まった。
姉とも電話を繋いで皆で医師の説明を聞く。
「嚥下のリハビリも行って、機能の回復状況を見ましたが、回復の見込みがありません」
顔色も良く、元気につたい歩きもできるようになった父に抱いた希望は、
ひとことで打ち砕かれた。


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砂時計の砂が落ちるように [父の介護]

入院当初の誤嚥肺炎は回復した。だが、新たな炎症が出た。
ということは、また新たに嚥肺炎を起こしたということだ。
病院では、嚥下の機能が落ちた患者でも、できるだけ安全に食事が摂れるよう
「完全側臥位法」という、横になったまま食べ物を流しいれることで
気管への誤嚥が起こらないようにする方法で食事介助をしてくれていた。
それでも、誤嚥肺炎が起きたという事なのだ。
リハビリを経て専門医が嚥下機能改善の是非を判定したが、
自分の痰があっても咳き込みもしない、異物に反応しない状態になっているとのこと。

食事を摂取し続ける限り、誤嚥肺炎のリスクがあり、
肺炎を繰り返すごとに体力が奪われていく。
かといって、食事を摂取しなければ自身の身体を使って生命維持することになり、
これもまた体力が奪われていく。
どちらの方法をとっても、まるで砂時計の砂が落ちるように、
少しずつ少しずつ父の命は残り少なくなっていくことには変わりはないのだ。

話しは続く。
「口から摂取できなくても胃ろうという方法はあります。
肺が機能しなくなっても、人口呼吸という方法もあります」
それは、私達が望まない、延命措置だ。
「それを望まないのであれば、食事の回数を減らして、誤嚥肺炎のリスクを減らします。
ただ、回復が難しい場合、入院し続けるのは難しいので、老人保健施設や
療養型病院への転院となりますが、現状、完全側臥位法を行っている病院は殆どなく、
受け入れは難しいと思われます」

万事窮す。
食べることが大好きな父。
施設の食事が意に沿わなければ自分で作ってまで食べることを楽しんでいた父。
食べること自体が、生きることのリスクになるなんて。
「では、もう食事はできないということでしょうか」
「基本的にはそうなります。病院ではわざわざ誤嚥リスクの高い食事摂取を続けることは
肺炎の繰り返しにしかなりません。それはとりもなおさず体力を奪うリスクなのです。
でも、受け入れ先で、“お楽しみ”として週に一度程度、
果汁などを舌に載せて味わっていただく機会はあると思います」
ただ、肺炎という病状がある状態では転院受け入れはできない。
あくまでコロナ陰性で、転院許可が出せる位の病状回復があっての転院なのだ。

私達も落胆したが、父もショックは隠せなかった。
「食べられないって、そんな馬鹿なことがあるか」
私からも再度噛み砕いて説明する。
父にしてみれば、体調も回復して、つたい歩きもできるようになり、
明らかに回復に向かっていると実感しているなかでの死刑宣告のようなものだ。
しかも、その方針を承諾する、ということは
自らカウントダウンのスイッチを押すという事なのだ。


電話口の姉も、私も、延命措置は望まないという意志は伝えた。
ただ、少しでも父が最期まで楽しみながら生きてほしい、という希望はあり、
少量だったとしても、「食べられる楽しみ」がある生活をさせてほしいのだと伝えた。
極端なことを言えば、食べて誤嚥性肺炎で最期を迎えることになっても、
食べることに渇望して最期を迎えるよりは納得できるであろうと思っている、と。

父は病室に戻り、私達も帰路についた。
もうすっかり陽が暮れて、暗い道を無言で帰る。
ダーリンは父を思って泣いてくれていた。


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せん妄の症状なのか? [父の介護]

10/6の医師面談の後、週に一度父に面会していた。
リハビリの甲斐あって、日中ならつたい歩きでトイレに行ったりできているようだ。
ひさびさにオムツでなく、トイレで自力で排泄できたことが一度あって、
「とてもスッキリした、気持ちが良かった」と喜んでいた。
意識もしっかりしており、認知症の症状もないと医師からも言われている父。
身体だけが今まで通りには動かせず、排泄や食事など本能に直結する部分で
人の手を借りなければならないのは随分苦痛だろうなと思う。
同室の患者さんが次々陽性になって逆隔離された個室は、
窓から中華料理屋が見えるため、「退院したら真っ先にあそこで食べるんだ」と
看護師さんに話しているらしい。
「相変わらずだなぁ。脳梗塞の時も窓から見える飲食店に最初に行くって言ってた」と
笑うものの、席に座って、普通の食事をする自分を想像していると思うと、
今回はそれはできないんだよ、と痛々しく思う。

食事をする=誤嚥肺炎のリスクを増大させる、ということであり、
発熱したりすると食事を摂らないという選択肢になるため、
徐々に病院での食事の機会も減ってきている。
それに伴って、飲みこむ機会が減ると口周りの筋肉が衰えるのか、
言葉がどんどん聞き取りにくくなってきている。
時々電話が来るが、ほとんど聞き取れず会話にならない。

前回の面会で、「退院しても施設には戻れないけど、施設のお向かいにある老健に
行けるように今動いているからね」と話すと、
「俺は病院から出ないぞ」と言いだす。
今回の面会では、何かに苛立って看護師さんにオムツを投げつけたことを聞かされる。
本人同席の医師面談で、
嚥下の機能に改善が見られず、誤嚥肺炎を繰り返しているので、
このままでは食事摂取自体ができなくなる、という話も出てきた。
老健に転院することで、週に1回頻度くらいで「お楽しみ程度」に口にすることはできる、
という話も、父の中では「一日一回程度に食事が減らされる」と変換されており、
同席していた一同が「ああ、受け入れられない事実なんだ・・・」と落胆した。

医師や私達が再度状況を説明して、「承知した」と、一旦面談場所から父は退出した。
父が病室に戻った後にも面談は続いたが、
「食べられないという事実が受け入れられずに、どうも毎回情報が書き換わるようです」と
医師や看護師から説明を受けた。
一旦理解しても、父の中では
「退院して、施設に戻って、向かいのクリニックに通うのが最善」と帰着するようだ。
病院から出ないぞ、という話も、食事が摂取できなくなる話が書き換わるのも、
いわゆる「せん妄」という症状なのだろうか。


たとえ誤嚥肺炎で死につながる事態になったとしても最期まで食べさせてあげたい、
という気持ちは私達にもある。
でも、現在の医療体制の中では、入院療養か老健か位しか選択肢はなく、
そこから外れた介護を望むならば自宅に引き取るしかない。
「あれだけ食べることが好きなお父ちゃんが、食べられなくなるのが可哀想だ」と
ダーリンは「うちで引き取ってもいい」と言ってはくれる。
しかも、優しいから、父を思ってつい泣いちゃうのだ。本当に優しいなぁ。

だが、現実的には、父が家に足を踏み入れるだけでも大変なのだ。
現在の父の体調なら、介護タクシーを使って車いすかストレッチャー搬送だが、
まず、札幌からの搬送時間が長い。
着いても、段差がいくつもあって、車いすもストレッチャーもタタキから上へは入れない。
父を寝かせるベッドに連れて行くだけで、何段も段差を越えて
二人で抱えていかなければならないだろう。
トイレはどうする? うちは汲取りだ。トイレに水道も通っていないし、
トイレにも、そこに至る過程にも手すりはない。結局オムツしか選択肢はない。
部屋に手すりをつけたり、段差をなくしたりするだけでも大変だ。
そもそも、病人が快適に過ごせる温度を保てるのか?
隙間だらけ、虫だらけの部屋。暖房のない廊下や玄関との温度差はどうするのだ。
もし具合が悪くなったら? 厚田にはクリニックしかない。
救急搬送したとしても石狩や札幌の病院では遠すぎる。
ちょっと想像しただけでも、全然、まったく、現実的ではない。
姉や周囲からも、「一時の感情だけでは済まない話だよ」と諭された。
本当にそうだ。私達ができるとこととしたら、
父に食べる喜びを少しでも感じてもらえる食事を提供する、以外は全く無力だった。

姉とも話し合い、「最善の選択肢は老健と信じて、とにかくその方向で進めよう」
ということになった。
入院中の病院のケースワーカーさんが親身に動いてくれて、
老健での受け入れを模索してくれている。
老健の見学もできるらしい。
姉はそれに合わせてまた札幌に来てくれることになった。
「父を見送るまで札幌に住んで、できる限りのことをしてあげたい」と言ってくれた。


延命措置を望まない、と言うのも、
父の望みをできるだけ叶えたい、と言うのも口では簡単だが、
母のように静かに枯れていくことを想定していた私達にとって、
こんなにも「生きたい!」と強く願いながら身体が追い付かない父の姿は想定以上だった。
ある程度覚悟をしていたものの、それはまだ覚悟とは言えなかったのかもしれない。
ひとりではかかえきれない想いを、
医師、看護師、ケースワーカー、施設の職員、関わった人達すべてが
なんらかの形で力になってくれていることが本当にありがたい。
そして、一緒に想いを抱えてくれるダーリンと姉が居てくれることが、
何よりも、何よりも、ありがたい。


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姉が来てくれる! [父の介護]

10/25に姉が来札してくれることになった。
父の介護を考えて、札幌に住まいを探すと言う。
10/25当日は4ヶ月ごしの光回線開通工事日のため私達は動けないが、
10/26の老健見学や医師説明にも一緒に行ってくれるので、凄く、凄く、心強い。

父との面会はコロナ感染予防対策で週一度しか許されないが、
施設に郵便物を取りに行って支払いに回ったり、介護用品を届けたりがあるので
なんやかやと週2~3回は札幌往復しているのを少しでも分担してもらえると
本当に助かる。
これから冬を迎えて、天候によっては札幌に行くことすら難しい日も出てくると思うと、
札幌に家族が居てくれるのはなんと心強いことか。
数日はホテルに宿泊しながら物件の内見をして、週末には厚田に泊まりに来る。
一緒に面会に行ったら父も喜んでくれるかなぁ。
厚田ではとっておきの地元素材で一杯やろうかねぇ。
不安な中でも楽しみがいっぱいだ。

姉妹がいるって、ありがたいね。


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老健見学と面会 [父の介護]

今日は姉と待ち合わせて午前中は老健見学、午後は病院で面会だ。
厚田~石狩間は順調だったが、札幌市内に入ると工事渋滞にも引っかかって
見学時間に間に合わないかもしれない状態になった。
姉に先乗りしてもらって時間を繋いでもらいながら、なんとか数分程度の遅刻で済み、
父の状況の説明と、老健ができる対応についてお話を伺うことができた。
とにかく、できる限りの対応をしたいと仰っていただき、
諦めていた完全側臥位法での食事にも対応したいと言われて、私達は急に明るくなった。
もう父は自宅介護しか経口食は無理なんだ、と思っていたのに、
回数は少なくとも、その道が残されていたんだということが何より嬉しかった。
老健にお世話になると決めて、あとは父の状態を見ながら
病院のケースワーカーさんと調整していただくことにして老健を後にした。

午後から面会のため、病院の近くで昼ご飯にした。
父はさすがに、肺炎の度に絶食対応になるため更に一回り痩せていたが、
顔色も悪くなく、シャッキリしているように見えた。
これまでも、面会の予約の際に
「発熱していたので面会時もぐったりしているかもしれません」なんて
看護師さんに予告されていても、会えば割と元気そうに見えていたのは、
家族に元気な姿を見せたいと言う気持ちの張りなのかもしれない。
寝てばかりいると入歯が入れられないので、だんだん入歯も合わなくなってきたらしい。
声も出にくくなり、なかなか話が聞きとれない。
メモを出して筆談してもらうと、何やら三つの山のようなグラフのような線を書き出した。
姉、ダーリン、私とも全く意味が分からず、更に書いてくれるよう促すと、
「さいばんで あらそう」と書く。
うちは何か係争ごとがあるわけでもないので、
数年前に亡くなって財産分与手続きが大変だった叔母の話か、と聞くと違うらしい。
「外で 思いがけず ?ので 見て 大ごと」
「水がのめない 何の為の病院か こんなのは最低」
などのキーワードから、
喉が渇いても水が飲めない、病院の対応が最低だ、と訴えているようだ。


ちょっと不思議なのだが、以前聞いた時、
父がてんかん発作と思われる状態で転倒した時や、
痰が吐き出せず血中酸素濃度が下がって救急車を呼んだ時のことを
あまり記憶しておらず、本人は苦しかったという意識が無いようなのだ。
てんかん発作の時は意識が無い、というのは後に調べて理解したが、
あの呆然と見守るしかなかった救急搬送前の苦しそうな状態も、
「お父さんはあの時、息ができなくて苦しそうで、
そのまま窒息死するかと思ったんだよ」と言っても
「そうか? お父さんは苦しくなかったけどな」などと言っていた。
抗てんかん薬が強すぎて朦朧としていた時期も、辛そうだったのに記憶にないらしい。
カラダは苦しんでいるけれど、本人の意識はちょっと遠いところにあって、
苦痛を感じないものなのかしら、と思ったりしたのだった。

今の父は、カラダと本人の意識がちゃんと近くて、
苦しい、乾いている、というのがはっきり自覚できているんだな、と
反対に少し安心するような気持ちで父の話を聞いていた。
病院は今、コロナ陽性者が次々と出ていて、この病棟は高齢者ばかりなので
間違いなく大忙しなはずなのだ。
陰性の逆隔離で個室におり、完全側臥位法で一日一回の摂食もしくは
体調によっては絶食対応している父の病床には
以前より顔を出す頻度が減っているかもしれない。状況は想像がつく。
姉とふたりで、まぁまぁまぁ、お怒りはごもっとも、と聞き、
こういう状況だし、ひとりの看護師がずっと担当する訳じゃないから
多少の行き違いはあるだろうけど、喉の渇きの対応はちゃんとお願いする、となだめる。
ご不満はあるでしょうが、「裁判で争う」なんて物騒なことは考えず、
オムツを投げつけるなんて、介護している人が悲しくなることをしちゃダメだよ、と諭す。


面会を終え、姉の物件内見に付き合って、
10/28からは厚田に泊まってもらうから迎えに来るね~と別れる。
「外で 思いがけず ?ので 見て 大ごと」のメモは
外出先で転倒してから急転直下こんな事態になって戸惑っている、と伝えたいのだろう。
転倒はたった1ヶ月半前なのだ。
それまで自由に出かけ、自由に食べ、気ままにひとりの時間を楽しんでいた父にとって
耐えがたい不自由さなんだろうな。

帰り道、まだ冬至まで間があるのに、いつもいつも帰り道は真っ暗だな、と思う。
虫が出ようが、寒かろうが、早く厚田に帰りたい。


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姉と厚田へ [父の介護]

10/28、姉を迎えに札幌へ向かう。
今回は普通にホテルに迎えに行くが、先月の法事がらみの帰省でも、
友人宅だったり、ユースホステルだったり、ルームシェア風の宿泊施設だったりと
色々なパターンで転々と宿泊していた。
姉の話を聞きながら、札幌にも色々な宿泊施設が続々できているんだと驚く。
南一条交差点なんて、私の昭和なアタマでは、
「北海道で一番地価が高かった所」として認識されているが、
今やその辺りにもルームシェア風の宿泊施設があったりして隔世の感がある。
トランクひとつで1ヶ月も転々とできる姉のフットワークの軽さは凄いなぁ。
「お姉ちゃんは寅さんみたいだねぇ」なんて話して笑う。

面会はできないが、介護用品を届けに病院に寄る。
TV命な父は、入院してからも一日中TVを点けているので、
TVカードを購入するための金額を少しずつ渡している。
好きなだけ観られるようドンと預けたいところだが、病室で貴重品の保管はできないので
紛失しても差し支えない程度に、毎回3000円から5000円位を渡しているのだ。
看護師さんによると「点けたままずっと寝ているので、気が付いたら消してます」との事。
無駄にTVを点けてTVカードにつぎ込んでいるのか、と思うものの、
何か音がしていると安心して眠れるというのであれば、まぁそれもいいか。

施設に寄って、三人で父の部屋を片付ける。
老健に入所できることになれば、ここにある家財道具の殆どは処分しなければならない。
老健に持ち込めるもの、処分するものを仕分けして、
姉が札幌に居を構えたときに流用できるものは、取り置いておくことにした。
もう病院でも老健でも使う機会のない寝具類は、コインランドリーで洗う。
今晩は、この洗濯乾燥した寝具が、姉の厚田での寝床になるのだ。
施設の職員さんやケアマネージャーに現状を報告し、
お向かいの老健に移ることが決まったら、11月末を目途に退去する旨の下話をした。


厚田への帰り道、あいの里に寄って、宴の買い出しだ。
最近の私は殆ど晩酌はしないので、宴用にビールなんかも買って、
いつもと違う夕餉の予感にワクワクする。
姉に石狩湾に沈むキレイな夕陽を見せたかったけど、日没には間に合わなかった。
けれど、なんやかやといつもと違う話をしながらの帰り道は楽しい。
最近父がらみの話はついつい どんよりした気持ちになってしまうが、
こういうご褒美があるのも、父が入院しているからなんだなぁ。


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父なしで医師面談 [父の介護]

父は誤嚥性肺炎と回復を繰り返すたびに、やはり少しずつ弱っていっていた。
週イチの面会では元気そうな様子であっても、病床ではもっとぐったりしているらしい。
今回の医師面談は、同室者がすべてコロナ陽性になったため、逆隔離されている父を
同席させずに家族のみの面談となった。

老健への転院を11/13予定で進めてくれているが、
コロナの院内感染拡大を受けて、流動的な状況になっているという。
現状は先週の誤嚥性肺炎の発熱は治まったため一日一回の完全横臥位での食事らしい。
体力が徐々に落ちているため、高齢者はいつ呼吸や心臓の動きが弱まるか予断を許さず、
その際の人工呼吸や心臓マッサージを行わない場合、
そのまま病院で看取りとなる可能性もあるとのことだった。
父が同席していないこともあってか、いよいよ「看取り」という言葉が
頻繁に出るようになってきた。
延命処置を望まない場合、父の生殺与奪は本人と家族の手にある、と
突き付けられているのである。
姉と、「お父さんは病院から出ないぞ」と言っていたことを思い出し不安になる。
亡くなる前に予感めいたことを故人が呟いていた、というのを時々耳にするが、
まさか父は『病院から出られない』予感があるのでは、とイヤな想像が頭をよぎる。

もしもの事態になっても延命治療を望まないことを再確認し、面談を終える。
私たち家族は、父のカラダが寿命を全うし、老衰で逝ってくれることを望む。
あらゆる手を尽くして一秒でも長く生きてくれることよりも、
生き切って、燃やし尽くして、枯れていく様をしっかり見守ることを。
残念ながら一番大好きな『食べる』ということを奪われる、
つらい最期になるかもしれないが、それは私たち家族の責として受け入れよう。


父には面会できないが、介護用品と手紙と、TVカードを買うお小遣いを
看護師さんに託して、病院を後にする。
姉の手紙には「老健に移ったら食べられるようになるからね」と書いてあったが、
老健での対応は、『転院時の医師の判断に準じて対応を継続』と言われているので、
転院時に絶食対応中であれば老健に移っても絶食は続く可能性があるのにと思うと
私にはためらいがあった。無駄に期待させてしまうのではないかと。
でも、希望を持って闘病してくれるならその言葉は正しいのかもしれない。
色々揺れ動く。何が正解かはわからない。
こうして父に何が一番良いのかを思い悩むことが正解であってほしい。


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父からの電話 [父の介護]

姉が厚田滞在中も何度か父から電話が入った。
あいかわらず何を話しているのか聞き取れない。
「何か足りないの?」「TVカード、もう無いのかい?」
とか色々聞いてみるが、YESかNOかもよくわからない。
そのうち、諦めたのか癇癪をおこしたのか、電話は切れる。
私では通じないと思ったか姉にもかかるが、やはり同じで、最後はブツッと切れる。
「コロナで面会禁止だから、解けたら会いにいくからね」としか言えない。

その間も銀行振込や施設の片づけなどで札幌通いは続く。
姉は3日滞在した後、札幌に宿泊して物件探しや施設片づけに奔走している。
次の入居者さんが使えそうな家財は施設に譲るなど相談し、
父の一番のこだわり、大型TVは施設に譲って、かかわりのあった人たちが
楽しんでくれたら父も嬉しいかねぇ、なんて話しながら三人で片づける。
それにしても、この施設に転居する前の実家片づけでは随分荷物を少なくした筈だが、
たった一年半で洋服も靴も、こまごまとした雑貨類も、こんなに増えるものなのか。
押入れもパンパン、キッチンもベッド周りもゴチャゴチャだ。
1DKのコンパクトな住まいの中で、老健に持ち込めるトランク1個分の衣類と
段ボール1個分の雑貨程度しか、今後の父の生活には必要ないものになってしまった。
実家片づけは2度目と言えるが、今回の片づけは
回復の希望がない片づけなのが、なんともやるせない。

分別したゴミは施設にゴミ出しをお願いし、
レンタルしている介護用品の撤収の手配をしたら、
あとは姉の札幌住まい用の荷物と、老健に持ち込む荷物だけになるだろう。
処分場に持ち込むゴミはうちのステーションワゴン君に積み込めば、
なんとか片付きそうだ。


そんなこんなで、姉の札幌住まい用の荷物と処分場に持ち込むゴミを満載して
姉の厚田滞在第二弾のため3人で厚田に帰る途中のことだった。
札幌市内は穏やかだったが、やはり石狩川を渡った頃から天気が変わってきた。
望来の海岸沿いから吹雪になった。
ヘッドライトが当たるとかえって視界が遮られるほど、
こちらに向かって襲いかかるような雪。
いつもなら眩しくて一瞬目つぶしを喰らうような対向車のヘッドライトが、
むしろ見通しを確保してくれてありがたい。このタイプの吹雪は初めてかも。
厳しい海岸沿いの吹雪に晒されながらなんとか厚田に辿り着くと、
結構な積雪になっていた。
山に向けて進むほどに風は穏やかになってフワフワの雪道になり、
あと10分ほどでおうちに着こうかという時に、電話が鳴った。
父からだった。

「助けてくれ! いますぐ迎えに来てくれ!」
あんなに聞き取れない喋り方だったのに、はっきりと。


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姉が名古屋に戻る前に [父の介護]

さて。父がらみの話が随分と後回しになってしまった。
ちょっと時系列が前後したりあやふやになっているところもあるが、振り返ろう。

11/11に姉とともに厚田に帰る途中に「助けてくれ」と電話が入って以来、
父には面会することもできず、ただただ待機、という状態だった。
とはいえ、私達は毎夜晩酌しながら厚田メシを楽しみ、普通に生活していた。
2階の部屋は多少虫が這い出して来ることを気にしなければ泊まるのには支障がなく、
姉も「もっとすごいところかと思ってたけど、全然大丈夫じゃないの」と言ってくれた。
父のことが頭から離れないものの、姉と過ごす数日はいつもとは違った楽しさがあった。
でも、姉は自分の通院もあるため11/16には名古屋に戻らなければならない。
姉が居てくれるうちに、なんとか老健に転院して、施設も片づけて、と言う予定は
もう無理になってしまった。

11/13。医師面談のため、三人で札幌に向かう。
病院に行ったとて、11/14まではコロナ対応で面会禁止のため父には会えないのだが。

面談では、以下のような説明を受けた。
・コロナについては短期間で解熱し、酸素投与も不要な状態で治癒した
・しかし11/8に再び発熱、誤嚥性肺炎によるものと診断
・一時的に酸素投与も必要になり、喀痰も増加
・治療により現在は再び落ち着いている状態 ・・・とのことだった。
老健への転院は一旦延期となったが、病状が落ち着いてきたので再調整をする方向。
父の病状は発熱を繰り返す中、さらに一段階進んだ印象で、薬の服用も難しい。
点滴によって薬の投与と水分補給を行っているが、もう針を刺すのも難しくなってきており、
点滴も難しい場合は皮下点滴に移行していくが、それも限界がある。
残された時間の予測は難しいが、最期の時は以前よりも近づいてきており、
病状によっては病院での看取りの可能性もあるかもしれない、とのことだった。

この説明ですべて合点がいった。
コロナ回復後の誤嚥性肺炎以降は摂食も薬の服用も、その時に飲めたであろう水も、
もう口からは摂れなくなってしまっていたということだ。
食事も水も与えられない状態で、11/11に「助けてくれ」の電話が入ったんだね。
本人には納得できない状況だったんだろうな。
病院としては経口摂取=誤嚥性肺炎に直結という状態なので、
口の渇きについてはガーゼに浸みこませた状態で水分を摂れるように
対応していくとのことだった。


施設の片づけをして、11/20に姉の友人に手伝って貰って冷蔵庫さえ搬出すれば
あとは厚田に持ち帰ったり施設にゴミ出しをお願いすればいいだけの状態にした。
いったん皆で厚田に帰る。
姉は11/15には名古屋に向かうが、当日に厚田の天候が荒れて移動できなくなるのが怖いので
出発前日は札幌に泊まる、というので翌朝JRあいの里学園前駅まで送った。


姉は父の介護のために部屋を借りて札幌に住んでもいいと言ってくれたが、
住居も決まらず、このままでは借りるより先に父が最期を迎えてしまうかもしれない。
だから今回はいったん札幌に住むプランは白紙に戻そうということになった。
もうカウントダウンは始まってしまったのかもしれない。


姉は11/15に無事帰名したが、医師面談時にもケースワーカーとの電話でも
「姉は11/15にはもう帰らなきゃならないんです」と訴えていたのが効いたのか、
なんと帰る前に面会できたそうだ。
確かに弱って更に痩せていたが、眼光もしっかりしていて、
声は出せないものの身振りで意思表示もしっかりできていたとのこと。
良かった。 せっかく来てくれたのに、たった一度しか会えないんじゃあんまりだった。
父も姉の顔を見て少しは安心してくれただろうか。


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