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老健転院に向けて動く [父の介護]

さてさて。姉が帰名してからは、本当に記憶があいまいだ。
11/27転院に向けて再度調整していただくことになり、その間は施設の荷物の後始末、
支払や解約手続き、不動産会社とのやりとりなどで忙殺されていた記憶しかない。
しょっちゅう札幌に行っていたけれど、
その間はおそらく一度もしくは二度の面会だったと思う。
姉の面会時の話と違って、とても衰弱していた。
唯一自由に動かせる手だけをひらひらと宙に舞わせているばかりで、
私の問いかけに動かす手も、肯定なのか否定なのか、父の意思が量りかねる状態だった。
このまま父と意思疎通できないまま最期を迎えてしまうのかと不安になる状態だった。
姉に「もう父は危ないかもしれない」と電話した。
名古屋に帰ったばかりではあるが、緊急性があるならまた帰省するよ、と言ってくれた。

11/27老健転院とスケジュールは決まったが、あとは父の体調次第だ。
また肺炎を起こしたり発熱したりすると白紙に戻ってしまう。
病院に居る限りは自由に会うこともできないのだから、
なんとしても看取り前に老健に転院してくれることだけが望みだ。
もしかしたら、病院としてもこのまま病院で看取りになるよりも
面会できる老健に転院して最期を迎えさせてあげたい、と意図してくれている気がする。
病院との電話の際に、姉が帰名前に面会できたことを喜ぶと、
「いや、長女さんがもう帰られるというので、その前に何としても面会していただきたくて」と
ケースワーカーさんが言っていたことからも、配慮いただいた可能性を感じた。
今の父が老健に移っても、おそらくもう二度と経口摂食はできないし
レクを兼ねた楽しいリハビリも、サークル活動も、ロビーでTVを見ることも、
老健に移りさえすればできる、と期待していたことは何一つできないだろう。
私達家族との最期の時間を過ごすためだけの転院なのだと思う。



冬になってからの石狩はいちいち吹雪いて、札幌往復もなかなか大変になってきた。
冷蔵庫の引き取りのため札幌に行くことになっていたが、
引き取って処分してくれる役を買って出てくれた姉の友人が、
「その日は天候が荒れるらしいぞ。施設に言って鍵さえ開けてくれるようにしてあれば
事前に俺一人で引き取れるから、無理して札幌に出てくるな」と言ってくれて、
ありがたくお言葉に甘えることにした。


病院も、施設も、老健も、姉の友人に至るまで、
みんなみんな少しでも良い方向へと気遣ってくれているのが、身に沁みてありがたい。
そして、いつも一緒に動いて支えてくれているダーリン。
陰に日なたに支え、共有してくれる頼りになる姉。
何より、ついえようとしている中で懸命に生きてくれている父。
生きていくということは、支えられ、支え合っていくことなんだな。

どうか、無事に老健に移れますように。


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老健転院 [父の介護]

11/27。老健転院のため札幌に向かう。
でも本当に転院できるかはまだわからない。
当日朝の診断で発熱や肺炎の徴候があれば、老健では受け入れができないため、
父の体調次第なのだ。
10時の出発に合わせて30分前までに病院に着きたかったが、
渋滞に巻き込まれて少し押しそうだ。
移動しながら病院に連絡したら、
「10時までに着けるなら大丈夫ですよ。転院可能との診断も出ましたよ」とのこと。

父はストレッチャーで移動するので、
ケースワーカーさんが介護タクシーを手配してくれている。
私は父に付き添い、ダーリンはステーションワゴン君で別途老健に向かってくれる。
先に退院手続きをして、父の病棟に向かった。
父がストレッチャーで搬送されてきた。
衰弱しているが、「これから老健に移るからね。慣れ親しんだ施設の向かいだよ」と
声をかけると、頷いてくれた。意識はしっかりしているようだ。

移動する時、ナースステーションから大勢の看護師さんが出てきて、
皆でお見送りをしてくれた。
「がんばってね~」「いってらっしゃ~い」と手を振ってくれる。
好きで絶食させたわけでもないのに、父の苛立ちの矛先となって
時にはオムツを投げつけられたであろう看護師さん達が、笑顔で見送ってくれる。
なんだかぐっと来て、涙ぐんでしまった。
色々制限のある中で、本当に良くしていただいた。
ありがとうございました。

移動中は、父の手をさすりながら、
「老健はいつも通っていた向かいのクリニックと棟続きになってるんだよ」
「お父さんが大好きな公園もすぐ横にあるよ」と話しかける。
すっかり肉が削げ落ちて、骨と皮だけの手だが、
老人特有の、しんなりとしたツルツルした手触りが
祖父母や晩年の母、叔母の手を思い出す。
ああ、みんな、こういうツルツルの手触りだったなぁ。
私、老人の手をさするの、好きだったなぁ。
父はもう、晩年の老人の手なんだなぁ、としみじみ思いながら。

そうして、ついに老健に転院することができたのだった。


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終の棲家 [父の介護]

父が搬送されたのは、職員詰所の真向かいの、個室だった。
老健は高齢者施設と病院の、ちょうど中間的な感じで、
人員は少ないながらも看護師常駐、担当医師が巡回している。
病院ほどコロナ対策の縛りがきつくなく、
外来者がきちんと手洗い・消毒を励行して職員の許可を得れば、自由に面会可能だ。
しかも、父の場合は看取りを前提とした緊急時でもあるため、
個室にはソファがあって、夜通し付き添うことも可能だということだった。
洗面台や専用トイレもあるので、
付添いの私達も気兼ねなくこの部屋だけで色々と完結できるわけだ。

ダーリンと二人で施設から運んできた老健で使う荷物を、ロッカーやチェストに収め、
9/26の救急搬送以来、聴くことができなかったラジカセを設置した。
次から次へと職員さんや看護担当者さんや嚥下を診てくれる専門看護師さんが
顔を出してくれて、早速オムツ替えと着替えに取りかかってくれた。
入院時の病衣を着たままで移送されたので、父のパジャマに着替えさせてくれたのだ。
病衣を脱いだ父の身体は更に更に痩せ細って、亡くなる直前の母の姿と重なった。
絶食して20日程経つのだから、父は生きるために自分のカラダを費やして
生命を維持しているんだなぁと切なくなる。

ひとしきり片づけ作業をして、窓の外を見ると、
父が終の棲家だと思っていた施設が、道路を挟んで真向かいに見える部屋だった。
「お父さん、施設が真向かいに見えるよ。慣れ親しんだ場所に帰ってきたね」
「お姉ちゃんも冬支度してまた来てくれるって言ってるからね」
と声を掛けると頷いてくれた。少しは安心してくれただろうか。

音量が大きくなければイヤホンを使わずに音楽を流してもいい、とか
壁にも思い出の写真をバンバン貼っても大丈夫ですから、
入所者さんが心地よく過ごせるようにどんどん使ってくださいね、とか
職員さんたちの気遣いは多岐にわたり、
よりよい看取りのために最善を尽くそうという心配りがとにかくありがたい。


午後から医師説明があるとのことで、父に「用事を足しに外出してくるね」と
声をかけて、説明時間まで食事を摂ることにした。
この近所にはランチを食べるのにちょうどいい店が結構たくさんある。
スーパーやリサイクルショップも徒歩5分圏内の、住むには便利な場所。
つい2ヶ月前まで、父はここで自由気ままに暮らしていたのに。
終の棲家でその生活が続くと信じていた父は、
道路ひとつ隔てた、別の終の棲家で、思い描いていたのとは違う最期を迎えるのだ。

ダーリンはどんなことを考えているのだろう。
もう二度と、こんな風にごはんを食べることのない父を思っているのだろうか。
無言で二人、ごはんを食べたのだった。


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朧月夜 [父の介護]

老健の担当医師から現状と今後の看護方針の説明を受ける。
担当医師は従前から父が通っていたクリニックの医師でもある。
そしてなんと、父が法事や温泉に行けるかの可否を診断してくれた医師でもあった。
「ああ、あの時の! 父の気持ちを尊重してアドバイスいただき有難うございました!」
一気に親近感と信頼感が高まった。

父はもう嚥下自体ができないので、絶食対応になること。
服薬や水分補給も点滴で行うが、もう血管からは難しいので皮下からとなるが、
吸収にも限界があるため浮腫みが出てくる可能性が高いこと、など
基本的に入院中の看護方針を継承するものだった。
けれど、職員の許可さえ得れば長時間の面会も可能だし、
お楽しみ程度に、たとえばジュースなどを口に含ませて味わうことも可能とのこと。
面会できて、何かしてあげられることが出来るようになっただけで大進展だ。


久々にラジカセで音楽を流す。
父は童謡や抒情歌が好きでよく聴いていた。
小さい頃、夕暮れに父と散歩しながら『朧月夜』を一緒に歌ったことを思い出す。
でもどこを散歩していたのか風景はまったく思い出せない。
近所ではなく、なんとなく夕映えの野原のような・・・でもやっぱり思い出せない。
はっきり記憶にあるのは歩きながら、一緒に歌ったことだけ。
うちは小さい頃から食堂や惣菜屋をやっていたので、
母は私が目覚めた時も夜寝る前も、いつも食堂の厨房で常に働いていた。
父は配達ぐらいしか働いている姿を見たことはなく、
母に「配達あるからお父さん呼んできてー!」と言われて探しに行くのは
近所のパチンコ屋だったり、スマートボール場(古いな)のような遊戯場だという、
典型的なドラ息子オヤジだった訳で。
おそらくああして散歩していた時も家では母が必死で働いていたんだろうなぁ。
そんなこんなを思い出しながら、『朧月夜』の入ったカセットテープを架ける。

明日は施設の明け渡しだ。
今日は残りの荷物をステーションワゴン君に積み込んで帰ろう。
ダーリンは漁の網外しのお手伝いに行くので明日は路線バスでまた来ることにしよう。
「今日はもう帰るけど、明日も来るね~」と声をかけて、老健をあとにした。
施設の荷物を積み込んでの帰り道は、すでに真っ暗だった。
いつも帰り道は暗く、吹雪いている。
朧月夜なんて、抒情的な世界ではないなぁ。


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猛吹雪の石狩湾 [厚田の風景]

キーンと冷えた朝。
ダーリンが網外しのお手伝いに行く前に、バス停まで送ってもらう。
道の駅あいろーど厚田は札幌行きの路線バスの始発点だ。
駐車場は日中に融けた雪が凍って、踏むとバリバリ、ガリガリと音を立てる。
「厚田に着く時間が決まったらメールするから迎えに来てね~」と別れる。
始発からは私一人、厚田市街地の二つのバス停からはそれぞれ2人ずつ乗車して、
スカスカの車内は暖房が入っていても うすら寒い。

もう陽が出ているはずだが、すぐ東側が山なのでまだ薄暗さが残り、
アスファルト面が出ている道路も、風に煽られた雪がサァーッと渡っていくのが寒々しい。
西側に石狩湾を臨みながら進んでゆくが、夏の緑がかった色ではなく、鉛色の海。
白い波頭が沖までひょこひょこと見え隠れするので、時化ているのだろう。
石狩市街に近づくにつれて、通勤・通学の人がどんどん乗り込んできて、
車内も混んでいき、窓ガラスが曇って外が見えない。
石狩川を渡ると天気がガラッと変わるのはいつものことながら、
札幌に近づくにつれて雪が降ってきた。


今日はスケジュールは
・病院に病衣の返却と、併設の歯科の支払い
・施設の部屋の明け渡し
・複数の銀行口座の残高を、引き落とし専用口座に一本化
・区役所での各種手続き、
・父の携帯電話の解約、おうちWi-Fiの機器についてショップで相談
など細かな用事が目白押し。
車があるよりも地下鉄で機動的に動く方が便利だったので、好都合だ。
ただ、札幌は湿った雪がずっと降っているので、屋外の移動のたびに
ベチャベチャに濡れるのが不快で、濡れると冷えるのがちょっと大変。
ただ、札幌は厚田に比べて2℃くらい気温が高い感じでかなり暖かかった。

無事用事を終えて父の面会に行く。
弱々しいながらも、これする?あれする?と聞くと手で○や×を示してくれる。
もう声を出すことはできないものの、意思疎通ができるのは嬉しい。
喉が渇くというので看護師さんに相談すると、ガーゼに水を含ませて吸わせてくれた。
ひとりでは寝返りも打てない身体なのに、
必死に看護師さんの腕にすがりついて赤子のように水分を吸う横顔。
その渇望が胸に迫ってなんだか改めてショックを受ける。
2時間ほど父の傍にいた後、「明日お姉ちゃんが札幌に着くよ」と言い残して帰る。


17時になる前になんとかバスに乗り込む。結構混んでいたが、
石狩市街までで大半の人が降車していった。
札幌から出ても雪が止まないどころか、海岸が近くなると更に強く吹雪くようになった。
石狩川河口付近の八幡あたりが猛吹雪のピークだった。
強い風に煽られて、バスが横揺れする。真っ暗な窓の外は、雹のような荒い粒の雪が
進行方向と並行に真横に線を描く。雷も光った。
視界も悪い中、バスの運転手さんは淡々と先に進んでゆく。
怖くないのかなぁ、と思いつつ、照明で明るい車内は
それだけで少し恐怖心が薄らぐんだなぁと乗用車との違いを感じていた。

集落ごとにひとりずつ降車していき、終点に着いた時は私一人だけの貸切状態だった。
「暴風雪警報が出ているよ」と心配してメールをくれていたダーリンが
暗い駐車場で待ってくれていた。
やっと帰って来れた。こんな嵐だけど、厚田に帰ってくるとほっとする。
頻繁に往復していても、もう札幌はホームタウンではなくなったんだなぁ。


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ファンキー坂本九 [父の介護]

帰名していた姉が半月も経たずにまた来てくれた。
昨日から厚田は大荒れで暴風雪警報が出ているが、
千歳は問題ないのだろうか、姉は無事到着したようだ。
11/29の夕方に着き、その足で、何もできないけど顔を見てくると言ってくれる。
孫やひ孫の写真と熱田神宮のお守りを持ってきてくれたそうだ。

翌日、改めて面会に行ってくれた姉が、父の様子をメールで知らせてくれた。
孫たちの写真は見えないらしい。視力もおぼつかないのだろうか。
喉が渇くらしいのでコーヒーを買い、看護師さんがスプレーで口にいれてくれたそうだが、
美味しくないらしい。
いつもミルクと砂糖たっぷりのコーヒーだったので、物足りないだろうが、
ミルクや砂糖は肺炎になりやすい。
次回はドリップコーヒーで香りを楽しんでもらおうと画策しているんだって。
細やかに気を利かせて付き添っている姉の様子が目に浮かぶ。

坂本九のカセットテープを架けて、ちょっとファンキーな曲の時に手拍子をしたら、
父も一緒に手拍子をしたとのこと。
すごい、すごい!
耳はちゃんと聞こえてるんだな。
音楽を楽しめているのであれば嬉しい。


明日12/1は少し天候が持ち直しそうなので、
ダーリンと二人で面会に行こう。
自分たちが悪天候で動けない時も、傍に姉が居てくれるのは本当にありがたい。
姉が来てくれたことで、違う刺激があるみたい。
元気が出て、老健での生活が少しでも楽しんでもらえるといいな。


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お土産はハタハタ [厚田民としての生活]

ダーリンがお手伝いに行っているのは、ハタハタ漁の網外しだ。
ヌメって、鱗を付けて、でろんでろんになって帰宅する。
そして、肥料袋いっぱいに獲れた魚をおみやげに持ってくる。
・・・私、実はハタハタ、苦手なんだ~。
ハタハタの香りも、ヌメった感触も、ぷりぷりした卵も、もれなく苦手。

もともと、めちゃめちゃ偏食で、小さい時はごはんと卵と海苔しか食べられなかった。
野菜も魚も肉も、全部苦手だった。
好き嫌いが多い今ですら、ずいぶんと色々食べられるようになったもんだと思う。
でもまだまだ克服できないものは多いんだよね。
肉はわりと早いうちに食べられるようになって、野菜も淡白なものから克服していって、
魚は青魚とか鮭とかは克服どころか大好きになって。
でも、わりと生臭い魚は大丈夫になったんだけど、磯臭いもの(貝とかカニとか)は
食べられるものの、いまだにあんまり得意じゃない。
香りが独特な魚は、けっこう苦手なんだよなぁ。

ダーリンはせっせと下処理をして、鍋用にしたり、塩焼きにしたり、
干物にもしようとしてくれる。
私はただただ見守るばかりである。
それでも袋一杯は消化しようがない。
顔役さんやいちご農家さんの話では、けっこう浜からいただきものをするので、
お裾分けで持って行っても被っちゃうことがあるみたいだし、どうしようか。
うちは家庭用の中型冷蔵庫しかないので、冷凍するのも難しい。
10尾ずつくらいなら、引き取っていただけるかもしれない。

という訳で、10尾ずつ袋に入れてご近所まわりをすることにした。
なんとか皆さん、貰っていただけた。
最後にまわったメロンのご近所さんが、「黒枝豆、冷凍してあるから持って行く?」と
また わらしべ長者になったところで、切り出してみた。
「もし大きな冷凍庫があるなら、もっと引き取っていただくことは可能ですか」
「いや~、それは恐縮だけど・・・大丈夫よ」と言っていただき、
後ほど20尾ほど追加で引き取っていただいた。


サンルームは日光で温まることはあっても冬は締め切っていて換気が悪いので
干物は物置に干してみるとして・・・わ、私も少しはハタハタに挑戦しなくちゃね。
「冬は吹雪で動けなくなるから、危機管理として地元の人たちは冷凍庫が必須らしいよ」
とのダーリン情報。そうだねぇ。一度にこんなに貰ったら、冷凍必須だしね。
「ハタハタ漁が終わったら、いよいよニシン漁になるらしいよ」
ひゃ~。実はニシンの独特の香りも苦手なのよ~。
「旬の特産品がこんなに食べられるのに。そんなことじゃ厚田の女になれないよ」
ふえ~ん、すみませ~ん。

厚田の女への道は、まだまだ遠い。


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ひらひら舞う手 [父の介護]

12/1。
ハタハタのお手伝いの休みをもらって、二人で父に会いに行く。
時化なければ明日も夜明け前からお手伝いがあるかもしれないので、
午前中に行って早めに戻ろう。

父は点滴の針が血管に入らないので、皮下点滴になっていた。
看護師さんが二人掛かりで父に床擦れができないよう、
大きなクッションや抱き枕を使って手際よく姿勢を変えてくれた。
きめ細かなケアのおかげで父の身体はとてもキレイだ。
私達からすると暖かい部屋なのだが、父は手も足も冷たい。
心臓だって心房細動を抱えているのだから、
末端まで血液を行き渡らせるほどの体力がないのだろう。
前回看護師さんが「あたたかい手袋とか靴下があるといいかもしれませんね」と
アドバイスをくれたので、買ってきた手袋をしようとしたが、
手をひらひらと動かして避けるので、無理にするのはやめておいた。
少しは温かく感じるかしらと両掌でくるんでみたり、さすってみたが、
じっと預けてくれるのは最初だけで、またひらひらと動かして避けてしまう。
手が冷たいので布団をかけてみても、すぐ手をだしてひらひらと動かす。

足はどうかしらと擦ってみる。冷たい足。
少し浮腫みが出ているので、母の時を思い出してマッサージする。
母はあの時、「ずいぶん楽になった」と言ってくれたが、
同じことをしても父は手で×サインを出す。足を擦るのも嫌みたいだ。
転院する頃は、肯定の時頷くことができたが、
今は手を動かして○か×かのサインを出すしか意思表示ができない。
今 父が自由に動かせるのはこの手だけなんだ。
もしかして、このひらひら舞う手は無意識に動いているのかもしれない。
あれをしたい、これをしたいと思っても動かない身体の代わりに、
唯一動く、この手で何かをしているように見えてくる。
なんとなく、父の意識はこの身体に強固に定着しているのではなく、
ひらひら舞っているこの手のような状態でいるような気がしてならなかった。

どうしたら喜んでくれるのか、少しでも楽に過ごしてもらえるのか、
正解がわからないまま、帰宅する時間になった。


姉は入れ替わりで午後に来てくれるという。
介護職の経験がある姉なら、父が喜ぶことがしてあげられるかもしれない、と
淡い期待を抱きながら、厚田へ戻った。
ほんの5~6時間空けていただけなのに、厚田のおうちの駐車場は
10cmの積雪で埋まっており、早速の雪かきとなった。
そして、翌朝目覚めると、すでに20cmの雪が積もっていた。


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次々と面会に来てくれる [父の介護]

12/2。
担当してくれている介護ヘルパーさんから、
「ノンアルコールの日本酒もどきがある」と聞いて、姉があちこち探し回ってくれた。
また、飲む点滴と言われている甘酒もいいんじゃないかと買ってきてくれた。
酸味や甘味は感じやすいかも、とジュースも。
ゴクゴク飲むことはできないけれど、雰囲気を味わってくれるかもしれない。
お姉ちゃん、グッジョブ!

この日は札幌に居るいとこも面会に来てくれて、
姉と3人で日本酒もどきの味見をしたそうだ。
父においしい?と聞くと×サインだったそうだが、
親戚の中でも会う機会の多かった いとこ(父にとって一番年の近い姪)が
来てくれて、姉と3人賑やかに過ごしたことは
きっと気晴らしになっただろうと思うと嬉しい。
いとこは「この感じだと3ヶ月くらいは大丈夫じゃない?」と
自身の親を見送った時の様子と比べて言っていたそうだ。

さらに、その翌日12/3は父のかわいい孫、私にとっては姪っ子が
わざわざ名古屋から来てくれた。
9月に父が転倒した時に、ひ孫たち同伴で会いに来てくれたが、
「おじいちゃんがもう危ないかもしれない」と聞いて、
急ぎ一泊二日の弾丸で単身来てくれたのだ。
私達も12/4には父に会いに行く予定なので、時間が合えば姪っ子にも会えるかも。

雪が少し落ち着き、漁のお手伝いもないので、12/4二人で札幌に向かう。
お手伝いのこともあるので、今回も午前中から行って、早めに厚田に帰るつもり。
大人数では面会できないので、姉と姪が現れたら退室して
交代で面会すれば問題ないかと思う。
次々と面会に現れるので父も忙しいなぁ。(笑)


老健に着くと、担当看護師さんから廊下に呼ばれた。
「安定していた血圧が85まで下がっています。それに伴って脚にチアノーゼが出ています。
一時的なものか、今後徐々に落ちていくのかは判断がつかない」とのこと。
もしものこともある、という意味なのだろう。
姉にもメールで伝えた。
顔を合わせたかったが、姉と姪が来るのはもう少し後になるとのこと。
日没後の帰り道で吹雪くと危険なので、結局会うことができないまま
14時過ぎに老健をあとにした。
姪っ子は面会したあと、19時過ぎの飛行機で名古屋に帰って行ったそうだ。


「父が亡くなった」と姉から連絡が来たのは、
その日の22:30頃だった。


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母の時をなぞるかのように [父の介護]

まるで、会いたい人にひととおり会えたタイミングを待っていたかのように
たったひとりで逝ってしまった。

午後に姉と姪が面会に行った際にも、
「呼吸が浅くなっている」と看護師さんに言われたそうだ。
いつその時がきてもおかしくない状態だという意味だったんだろう。
老健は夜間、80人ほどいる入居者さんをたった一人の看護師さんが担当するので
終末期の入居者だからといって 付きっきりという訳にはいかない。
呼吸が浅いことを考慮して この日は何度も様子を見に行ってくれていたそうだが、
22時には異常はなかったという。
22時30分頃に行った時には すでに呼吸が止まっていたそうだ。
だから、息を引き取ったのは22時から22時30分の間ということだ。


母が亡くなった時のことを思い出す。
母は療養型病院で最期を迎えたが、誰にも看取られず、やはりひとりで逝ってしまった。
危篤だとの知らせを受けて、私達家族と、母の妹である叔母とで病院に泊まりこんだが、
その付き添った3日間、母は持ちこたえた。
小康状態になり、仕事もそう長くは休めないので、一旦付き添いはやめて
いつものように各々母の見舞いに行く、といく生活に戻った。
そんな生活が2週間ほど続き、私は仕事前の午前中に、姉は仕事上がりの夕刻に、
それぞれ母に会いに行った日の22時35分に母は亡くなった。
すべての数値が落ちている状態だったので看護師詰所の隣の病室で見守り、
やはり看護師さんが何度も様子を見に来てくれていたものの、
次に行った時には呼吸が止まっていたそうだ。

亡くなった時間といい、誰にも気付かれないタイミングといい、
まるで母が逝った時をなぞるかのように、父は逝ってしまった。


老健の医師は巡回なので、明朝 医師の死亡診断が出てから葬儀等の手配が始まる。
今晩はこのままこの部屋に、眠るように安置させてもらえるという。
姉がすぐ老健に向かい、今晩は父に付き添ってくれる。
「まだあたたかいよ」とメールが来た。
夜が明けたら、私達も急ぎ札幌に向かおう。
準備も覚悟もしていたつもりだったが、
結局、父も母も、最期を看取ることはできなかった。


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